某所で新月予報を出している「星見当番」の裏日記。裏当番&裏テントチームが執筆を担当


by ura_hoshimi

幻のアネモオヌ

【お庭番記す】

あっと言う間に4月。
都心より2日は遅い北関東のソメイヨシノも、
昨日の暖かさで一気に開いた。家のすぐ傍が広場で
周りにぐるりとソメイヨシノを植えてあるので、
この季節、暖かい夜に窓を開けると、風に乗って
ふわりと桜の香りが漂ってくる。

さて。3月のうちに準備だけはしておいたのだけど、
風邪やら確定申告やらで結局書けなかった話を一席。


これを書いている今、硝子の壺の、薄緑の水垢を沈めた薄明りの中から、
蛇が立ち上ったような恰好にそれぞれの形で延びている、
十本程の薄緑の太い茎の上に、濃紅色(こいべにいろ)、
黄みを帯びた薔薇色、ミルクを入れたように甘く白い紅、
檸檬の黄、なぞのアネモオヌ  (森茉莉 『贅沢貧乏』より)



アネモオヌ、とはアネモネ Anemone の仏蘭西語読み。
森茉莉はこの後、アネモネをアネモオヌと呼ぶことについて
ほぼ一頁を費やして脱線話をしている。

『贅沢貧乏』の中で、お庭番が最も愛する箇所がこの部分。
なぜならば、アネモネはお庭番も毎年冬から春にかけて
山ほど買い込むくらい大好きな花で、好きな作家がそれを
部屋に飾り、「アネモオヌ」と特に呼ぶくらいなんだから
やっぱり森茉莉もアネモネが好きなんだと思うと
子供の頃のお庭番、凄くうれしかったからである。

(いま、大人になって冷静に考え直してみると、森茉莉は
アネモネが特に好きというよりは「アネモネをアネモオヌと呼ぶこと」が、
つまりは仏蘭西語が特に好きなだけかもしれないのだが。
しかし好き嫌いの激しい森茉莉が、わざわざ嫌いな花を
部屋に飾るとも思えないので、アネモネ好きでもあったのだろうと
お庭番は考えることにしている。)

アネモネ好きのお庭番は、この「アネモオヌの箇所」が
とても好きなのだけど、しかしお庭番、この箇所を読むたび
困惑して耳が肩にくっつくくらい首を傾げてしまうのだ。


十本程の薄緑の太い茎の上に、濃紅色(こいべにいろ)、
黄みを帯びた薔薇色、ミルクを入れたように甘く白い紅、
檸檬の黄、なぞのアネモオヌ  (同上)


一般的なアネモネ(たとえばデ・カーン種と呼ばれるもの)の花色は
真っ赤、オペラピンク、青紫、白。たまにあるのが紫みのない浅い紅。
「檸檬の黄」のアネモネって、ありうるんだろうか
お庭番は、今まで黄色いアネモネを見たことがない。

上の文で、アネモネの色として普通にある色は「濃紅色」。
「黄みを帯びた薔薇色」「ミルクを入れたように甘く白い紅」も、
出回っている数は少ないが、もしかしたらあるかもしれない。
でも、ここにはアネモネとして代表的な色である筈の
「オペラピンク(紫みの、派手な濃いピンク)」や「青紫」が登場しない。

一体なぜなんだろう。あのオペラピンクの花弁に黒いベルベット調の蕊、
青紫の花弁に濃紺の、やはりベルベット調の蕊。巴里の花って感じがして
(註:お庭番の私見である)いかにもアネモネらしい色合いなのに、
『贅沢貧乏』のアネモオヌにはこの二色が登場しない。

そして、(お庭番の知る限りでは)ありえない「檸檬の黄」。
森茉莉の「アネモオヌ」は、果たしてお庭番の知っている、
あのアネモネなんだろうか。

『贅沢貧乏』で、森茉莉はこうも書いている。


花弁を上向けているアネモオヌの深い皿、
咲いていることにもう倦きているような、物憂い薔薇色、
黄色、ミルクを含んだ橙(オレンジ)、濃紅(こいべに)。
アネモオヌの美女たちは、この天使のついた燭台(スタンド)の
光の中でこそ、魔利に深い夜の夢を、見せるのだ。


「檸檬の黄」のアネモオヌよりも、少女時代のお庭番を震撼させたもの。
「ミルクを含んだ橙(オレンジ)」のアネモオヌ!ありえない。
それはありえない。檸檬色のアネモネよりも、もっとありえない。

一種類の花の中で、ふつう青紫系と赤系、青紫系と黄色系、
赤系と黄色系の花色は両立しても、青紫系と橙系の花色が
両立する花はとても少ない(お庭番は、両立する例を思いつかない)。

たとえばスミレは紫花と白花と黄花がある。でもオレンジのスミレはない
(品種改良でオレンジのパンジーだったらあるけれど)。
赤・白・桃・黄・橙の花色があるポピーには、青紫の花がない。
(ヒマラヤの青いケシは、ポピーと同じケシ科だけどメコノプシス属で、
ポピーが属するケシ科ケシ属とはちょっと違う。)

檸檬の黄やミルクを含んだ橙の花があるという、
「森茉莉のアネモオヌ」。本当は何の花なんだろう。
何か、アネモネに似た別の花を間違えて呼んだのか。
あるいは森茉莉が見た、幻のアネモネなのか。

それとももしかして、仏蘭西語ではアネモネ以外の、
アネモネに似た外見の花もアネモオヌと呼ぶのか。

いつも読むたび、疑問なんである。
森茉莉のアネモオヌが、本物のアネモネではないとして、
では一体、それは本当は何だったのか。檸檬色や橙色の花があって、
薔薇色や濃紅の花もあって、そして多分、アネモネと形が似た花。
広い花弁が深い皿型にカーブしている春の花。

―ポピー?

濃紅色、よし。黄みを帯びた薔薇色、よし。
ミルクを入れたように甘く白い紅、檸檬の黄、よし。
「蛇が立ち上ったような恰好にそれぞれの形で延びている」
これもよし。たしかにポピーの花茎は蛇っぽい。蕾の時は特に。
でも―


薄緑の水垢を沈めた薄明りの中から、
蛇が立ち上ったような恰好にそれぞれの形で延びている、
十本程の薄緑の太い茎の上に、


ここが違う。ポピーの茎は、ひょろりと細い。
焦茶のうぶ毛が生えた緑のスパゲティってところだ。
アネモネの茎は、うどんよりも太くて丸く、うっすらうぶ毛はあるけど
透明で光るうぶ毛で、薄緑の地に薄紫や薄紅のシェイドがかかっている。
そして、アネモネの茎はひやりとしていてなめらかで、くねっている。
その曲線は、森茉莉が書いたように「蛇が立ち上ったよう」でもあり、
森茉莉が黒猫ジュリエットについて言った言葉を借りれば
「くねくねしていて、とっても上等」なのである。

(お庭番は、アネモネのこととなったらうるさいのだ。)

ともかく。花色は合っているけれど、ポピーはちがう。
森茉莉の「アネモオヌ」ではない(と思う)。

―では、ラナンキュラスは?

花色、よし。太い薄緑の茎、よし。
同じキンポウゲ科で、雰囲気も少し似ている。
しかし、ラナンキュラスの茎は直線的で、花には量感があり、
とても「風の花」とは呼べない。「風の花」ならポピーの方が、
よほど相応しいと思う(アネモネの語源、アネモスは希臘語で「風」)。
蕾の形もアネモネほどのなまめかしさがない。


アネモネの蕾は蛇の頭のような形をしていて、うつむいている。
ラナンキュラスは、あんなに大きな花を咲かせる癖に、
蕾はとても小さく固く扁平で、真ん中が尖ったボタンの形。
薄緑のガクにしっかり包まれた蕾は、まっすぐ天を指している。
アネモネには目立ったガクがなく、青紫の花ならその色のまま、
裸の蕾がうぶ毛だけをまとって、うつむいているのだ。

2月の雨の日。
いつもと同じようにアネモネが欲しくなったお庭番は、
花屋に行った。いつものデ・カーン種のアネモネを
4色取り混ぜて買ったついでに、森茉莉が書いたような
黄色やオレンジ系の微妙な色合いのラナンキュラスが
置いてあったので、それも一緒に買った。

帰って、硝子の花瓶にそれらを活けた。


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デ・カーン種(ポピー咲き)のアネモネ。
白に青紫にオペラピンク。お庭番の愛する色の花たち。


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ちょっと開きすぎて、青みも薄れてしまったアネモネ。
これでは青紫ではなくて、ただの紫色である。
お庭番は、もっと青みの強い、開きの浅いのが好きだ。
でも、もうこれしかなかったのだ。花屋のアネモネは
12月から1月が一番出盛りで、2月にはあまり出回らない。
でも、相変わらず素晴らしいのはこの濃紺の蕊。
青紫の花弁にこの濃紺の蕊は本当におしゃれだと思う。


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白いアネモネは、蕊の色も白。これもおしゃれだと思う。
蕊のあたりは薄緑がかった白なのがまた素敵。


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アネモネのピンクにしては珍しい、紫みを感じない桃色。
右上に小さく写っているのが、よくあるオペラピンクのアネモネ。
お庭番はこの色を「曙色」と呼びたい。濃い鴇色というか。
少し濃いかもしれないが、この色合いだったら森茉莉の
「ミルクを入れたように甘く白い紅」と言ってもいいんじゃないかしら。


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こっち側、ラナンキュラス。同じ花瓶に活けてある。
アネモネは反対側に固まっている。真っ赤、オレンジ、
黄にピンクと、森茉莉が列挙した色が全て入っている。
でもラナンキュラス。


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檸檬の黄、なぞの アネモオヌ  ラナンキュラス。


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「ミルクを入れたように甘く白い紅」はこんな色かな。


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「ミルクを含んだ橙(オレンジ)」はこんなのでどうでしょう。


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淡い黄色だけど、檸檬色というほど緑みの感じられない、
橙色系の入った黄色。オレンジカスタードとでも言いますか。


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開きかけのラナンキュラスの蕾。花色はたぶん白。


一般的なラナンキュラスの花色は、赤、桃、橙、黄、白。
最近は、チョコレートカラーやワインレッドの花もある。
唯一、アネモネのような青紫系の花は咲かない。

森茉莉が描写した「アネモオヌ」の色は、全て黄みを含んでいる。
アネモネの花に見られる青紫系統の色は全く登場しない。
色合いだけで言ったら、森茉莉のアネモオヌはラナンキュラスに近い。
しかし、ラナンキュラスの茎には蛇のような曲線美がない。
花の姿にも、アネモネほどの「魔」がない(とお庭番は思う)。

森茉莉の「アネモオヌ」は本当は何だったのだろう。
本当はラナンキュラスで、ただラナンキュラスという言葉が
あまりロマンティックではないので「アネモオヌ」と言ったんだろうか。
(「ラナンキュラス」の語源はラテン語のrana―カエル―なのだ。
葉の形がカエルの足に似ているので、ラナンキュラス。)

アネモネとラナンキュラスは、似ているので間違える人も多い。
(大抵、ラナンキュラスが「アネモネ?」と言われる。逆は少ない)
森茉莉も、ラナンキュラスをアネモネの一種だと思い込んでいた
可能性もある。

でも、あれだけ物をよく見る森茉莉ならば、
ラナンキュラスの直線的な丸い茎だって見ていた筈だ。
あの茎は、間違っても「蛇が立ち上ったよう」には見えない。
「蛇が立ち上ったように」と書くからには、それはアネモネの茎なのだ。
しかし、アネモネではありえないような色の花が咲く。

美しいけれど、ありえない(と思われる)光景。
もしかして森茉莉は、アネモネ自体は好きだったけれど
青紫や紫みのピンクのアネモネは嫌いだったんだろうか。
それで、茎の雰囲気だけアネモネにして、花の色は
ラナンキュラスやポピーの色を採用したんだろうか。

確かに、あの『贅沢貧乏』で描写される部屋の雰囲気には
ブルーアンダートーン(底に青みの感じられる色合い)の花よりも
イエローアンダートーン(同じく底に黄みの感じられる色合い)の
花の方がよく似合う。部屋中を、どこから来るのか分らないような
黄色い光線が満たしているような空間だから。登場するほかの調度も、
皆、底に黄色みを秘めた色、あるいはブルー系であったとしても、
黄色系に合わせても調和するような、くすんだ、或いは淡い青だから。

(『贅沢貧乏』の魔利の部屋に見られる、イエローアンダートーンの色たち。
「藺草の色と鈍い赤との織り混ぜの上茣蓙」、夜具の色は
「橄欖(オリイヴ)地に薄い褐色で極細い模様のある木綿で、
袖や裾に折りかえっている裏は淡黄である。裏地と同じ色の
上蒲団は、二度洗ったために、魔利の理想の淡いカナリア色に
なっている。」ゴブラン織まがいの壁掛けの「朧ろな橄欖色や
鈍い黄色の濃淡、水灰色、柔らかな煉瓦色」「黄薔薇色の石鹸」)

もっとも、お庭番が『贅沢貧乏』の部屋に
イエローアンダートーンの色調を感じるのは、
登場する色彩だけではなく、読んでいた古い新潮文庫の
縁が薄茶になり、黄ばんだ本文用紙の色合いだとか、
初めて読んだ時に自分の部屋に差し込んでいた
黄色い午後の光だとかのイメージも多分にあるのかもしれない。
『贅沢貧乏』の部屋にブルーアンダートーンの色が
全く登場しないわけではないからだ(例、ロオズ色の陶器、
ヴェルモットの空壜の薄い青、薄緑のキャべツ)。

色の話で脱線してしまったが、そういうわけで、
この「アネモオヌの箇所」を読むたびお庭番は
深く考え込んでしまうのである。森茉莉が眺めたのと、
同じアネモオヌを部屋に飾って眺めてみたいが、
現実にそんな色のアネモネはない。

色を取れば、形に「魔」がない。形の「魔」を取れば、色が伴わない。
かといって、形のアネモネと色のラナンキュラスを一緒に飾ると、
なまじ似ている分、花瓶の中がしっちゃかめっちゃかになるのである。

檸檬の黄、のアネモオヌ。
毎年花屋でアネモネの束を買うたびに、
お庭番を心底悩ませる幻の花である。
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by ura_hoshimi | 2007-04-02 01:30 | お庭番記す