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某所で新月予報を出している「星見当番」の裏日記。裏当番&裏テントチームが執筆を担当


by ura_hoshimi

アップダウン激しすぎ

表テントで、表当番ご乱心(爆)。いいんだ、もう。
たとえドン引きに引かれたって。

以前ある人に、ネット上の日記や掲示板のような開けた場所で
「身近な人が死んだ」或いは「重い病気だ」というようなことが
書かれているのを読むのが苦手だと言われたことがある。
読んでいてやりきれない気分になる人もいるだろうな、とは思う。
でも、身近な人の死や病気に接してしまった人の中には
どこかにその体験を出してしまわなければやりきれない人も…
…いると、思う。読んだ人を苦しめるつもりはなくて、
ただ自分が苦しいとそうやって吐き出したくなるんだろうな。

たぶん、私もその一人。
読んだ人の心を乱れさせてしまったらごめんなさいと謝るしかない。

同じ人に、別の時に言われたことばがずっと心に突き刺さっている。

「不幸自慢ですか」「不幸自慢は、やめてくださいね」

私より若い人だったし、その時は曖昧に笑って済ませた。でもね。
気持ちが上向いている時は忘れてるけど、凹んでる時は思い出すんだな。

不幸自慢、か。いやな言葉。
「私ってこんなに辛いの、不幸なの、苦しいの」って?
勿論、不幸や辛い気持ちは誰かに自慢するようなものではない。
私だって「自分が苦しいこと」を自慢して歩きたいわけじゃない。
自慢するようなものではないけど、でもその不幸が大切なんだよね、私。
だから、自分が辛く感じたことを話したときに「不幸自慢ですか?」と言われると
カチンと来るんだろうな。

それは、苦しいこと不幸なことそのものが大切だったのではなくて。
その苦しみや悲しみのもと、失ってしまったものが大切なものだったから、
辛さや苦しさもどうにか訴えなければ耐えられないほどになるんであって。
だから、辛い気持ちの表出を(悪く言えば「垂れ流し」を)否定されると
失ってしまったものを大切に思っていた自分の気持ちぐるみ否定されるようで。

「不幸自慢ですか」という言葉を耳にした時のかすかな違和感は
思えばそういうことへの不快感だったんだな。
私は、いつもずっと後になってから、自分の中の不快感に気付く。
気づいたときには、大抵時すでに遅しだ。

過去の辛かった経験や、身近な人との死別について語る人たちの
「辛さの中身」は「自分の大切なものと引き離された辛さ」だ。
いじめられた経験が辛いのも、それは自分自身を二つに引き裂かれるような
自分の心の半分と死別するような、そんな経験だからじゃないかな。
大事なものであるほど、それと別れざるを得なかった経験は辛いんだよね。
何度もその辛さを語りたくなるほどに。
語るたびに辛くなるほど、大切だったんだよね。

それがたとえ、他の人にとってはどうでもいいものであったとしても。

うん、こんなの自己弁護にすぎないかもしれないけれど。
私は、あの「不幸自慢ですか?」という言葉の響きにあった冷たさを
言った本人の意図がどんなものであったにせよ、
たぶんずっと忘れないだろうと思う。

更新することと更新されること、そして更新されないということ。
そんなことについて、このところよく考える。
ある関係が生きているうちは、その人から出る言葉なんかよりも
その人の存在そのものの方がずっとずっと重要なの。
失言があったとしても、その関係が「生きて」いる限り
大抵のことは挽回できるし、絆は更新できる。
でも、関係が死んだ時でも言葉は死なないの。
言葉はずっと後まで残る。それが生まれた時の意図と無関係に。
そして関係が死んだら、言葉はもう挽回できない。
もう更新されないの。

言葉は矢で、人はその射手。
射手が生きているうちは、その人が発した言葉は飛び去って
そこに残って生きている射手自身の方が「その人」。
でも、射手の命が飛び去ってしまったら
その日から射手の残した言葉が「その人」の代わりになる。

ある人の発したひとつの失言を、
その人の存在そのものによって許すことができなくなったら。
その失言の次に発せられるかもしれない「よい言葉」への
期待も希望も持てなくなったら。言葉ひとつに絶望してしまったら。
その人との関係はもう死んでいるんだな、と思う。
by ura_hoshimi | 2005-04-06 02:25 | 裏当番記す